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「達人と歩く町」第4回目は『本牧のいにしえを探る』


【わが住む町を愉しむ会】



「達人と歩く町」第4回目講座を9月11日(水)本牧 八聖殿で行いました。

  

   9月11日(水)第4回講座を、本牧の高台にある「八聖殿」で開催しました。

今回の達人は、横浜八聖殿郷土資料館館長 相澤竜次さんです。

台風一過で気温が上昇する中、飛ばされた枝が階段にも落ちている所を踏みしめて、会員45名(出席率74%)が集まりました。



「本牧のいにしえを探るー八聖殿(8人の聖人)で遊ぶ」と題して、前半は相澤

館長の軽妙なお話で本牧の地形の成り立ちから、かつての自然の海岸の輪郭を学びました。 現在高速道路、工場地帯となっている所は昭和30年代から開発された埋立地です。



中世の本牧は鎌倉時代初期まで平子(タイラコ)氏という豪族が治めていました。永正9年(1512年)に伊勢宗瑞・氏綱親子(北条早雲・氏綱親子)から平子氏に送った制札の中に、「本牧」という地名が存在しています。平子氏は、伊勢宗瑞・氏綱親子の進軍により、一族がいる越後の上杉のもとに逃れました。



小田原北条氏は、本牧を南総からせめ上がってくる里見氏を迎え撃つ拠点としていました。大きな転機は、浦賀からペリー艦隊が来航したとき、交戦も想定して本牧は鳥取藩に警備を任されました。ペリー艦隊は本牧、東京内湾を測量して上陸場所を横濱村に妥協しました。



江戸時代に入って本牧は風光明媚な場所として知られるようになり、葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の富士山と押送船が描かれています。

北斎が二十年以上前に描いた「賀奈川沖本杢(ほんもく)之図」に八聖殿が建つ本牧岬の崖を描いているとも言われています。



八聖殿は、明治後半から昭和初期まで衆議院議員を務めた熊本選出の安達

謙蔵によって建てられました。法隆寺の夢殿を模したとされる八角形は1階が

安達の住居、2階が講堂として一般に開放されました。詩吟会も行われた場所に、高徳のあった八人の像を安置したいという安達の発想から八人の聖人像が安置されました。



キリスト像、ソクラテス像、孔子像、釈迦像、神鏡(鏡)、聖徳太子像、弘法大師像、親鸞像、日蓮像です。外国人4人、日本人4人。高さも揃えて間近で拝観できるのは感動します。

著名な作家たちに依頼されて十有余年かけて制作されました。



安達謙蔵は横浜商工会議所、横浜商業高校、横浜正金銀行(旧東京銀行の

前身)神奈川新聞、 JR横浜線など横浜発展の礎を築いた人物であり、生糸貿易商「小野商店」を経営し、海も富士山も一望できる本牧岬に三渓園を凌ぐ広大な邸宅を構えました。



散策では今は公園となっている邸宅のあとを見学しました。そこから、海に降りるトンネルや50m プールもあったという広さです。明治41年(1908年)10月、「白船(シロフネ)」と呼ばれた米国大西洋艦隊十六雙が来航したとき、小野園で園遊会が開かれました。白船の艦長はペリーでなくスペリー艦長だったという話です。



その後、八聖殿の崖の下の断層も見学しました。黒い層は相模湾からも来ているが、海の前は海水浴場であり、海苔の養殖、漁業が盛んだった場所です。

海の流れによる砂、大岡川の砂が砂州を形成し、入海は埋め立てられていった事も知りました。 ここで解散になりましたが、三渓園を散策する人もあり、本牧を愉しむことができました。



次回は10月9日「横浜自然観察の森でバードウォッチングを楽しむ」です。

ご参加をお待ちしています。




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丘の上の小さな博物館「八聖殿」

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八聖殿2階の講話会場

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講師の横浜市八聖殿郷土資料館館長 相澤竜次さん

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八聖殿1階の展示見学

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八聖殿1階の展示見学

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八聖殿周辺散策ー三渓園南口近くで崖の地層を見る


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